中吊りの「雨ニモ負ケズ」
電車の中吊り広告(あれなんの広告?確かKindleの古典読み上げサービスか何か)に、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が使われているのを見ました。
なぜかぐっと来て、「宮沢賢治って、偉い人だったんだな…」という当たり前すぎることを再確認してしまいました。
小学生の頃、国語で「雨ニモ負ケズ」を暗唱しなければならなかったことを思い出します。そのときは、「つまらない、偽善的なことばっか言って」とか「ほめられもせず、ってなんだよほめられたいと思っちゃいけないの?」とか思っていました。
でもこの歳になって、「ほめられないことを目指す」ことがどんなに非凡で、偉大なことであるか少しわかってきました。「ほめられることを目指さないけど、ほめられたら結果オーライ」ではありません。「ほめられないことを目指す」のです。だからって、「ほめられないことをわざわざする」のでもない。とても難しい。
まあ、宮沢賢治自身は地元の人々に好かれ、尊敬されていたわけですが。彼自身には、そのことについて苦々しい思いがあったのかもしれません。
大体、「おれは聖人君子じゃない」という思いがなければ「聖人君子とはこういうもので、こうなりたい」とは書き残さないんじゃないでしょうか。
そんなことを考えた車内でした。
私は宮沢賢治の童話がかなり好きで、マイナーだけどもっと知られてもいいと思うのは「カイロ団長」とか。童話の登場人物/動物たちは聖人君子とはほど遠く、実によく笑い、よく怒る。だから楽しい。
今日はここまで。
大学がつまらない根本的な理由を考えてみた
私は首都圏の大学に通う3年生ですが、このところ大学がつまらなくて仕方ありません。
とはいっても、大学がつまらないなんて今に始まったことでも何でもない。戦前に日本で唯一にして最高の大学がオープンしたときから、「大学はつまらないものだ」ということは一種の社会通念として知られていたでしょう。
「三四郎」の三四郎だってろくに大学の授業に身を入れてる様子がないし。
しかし、正直に言って1、2年の頃の私にとって大学は「けっこう面白い」ものでした。
授業が退屈なら後ろに座って文庫本を読んでいた。サークルや飲み会になじめなくても、「ふーん、こういうもんか」とある種の新鮮さを覚えていました。広い図書館を徘徊したり、まったくランダムに手に取った本を開いて「つまらない」と書架に戻すことさえ、楽しかった。もちろん勉強に身を入れることにもそれなりの達成感がありました。
それならなぜ今はつまらないか?
その原因は「学校」というものの構造そのものにある気がします。すなわち、学生は教授に査定され評価されなければ仕方がない、という構造。
どれだけ教授が柔軟に異論を受け入れたり、オープンエンドなエッセイ形式の課題を出したりしても意味がないんです。学生に主導権を与え、グループディスカッションなんかさせても意味がない。そんなのは表層です。「自主的に学ぶように」と命じられて発揮する自主性なんて、自主性じゃない。
そんなのは奴隷精神の極致かもしれない。
学生の多くは成人してます。「大人」です。だけど構造的に、学校の授業に「大人」はひとりしか必要ない。授業に出る身である限り、学生は「子供」でいることを許されるし、また余儀なくされます。
それがこの緊張感のなさ、なんともいえない面白くなさをもたらしているのかなーともやもやした次第です。
今日はここまで。