日刊ひねくれ通信

みんな、もっとひねくれよう。もっともっと、ひねくれよう。

嘘つきのススメ

嘘、というテーマで思い出すのはディズニー「ピノキオ」だ。女神さまに向かってつまらない(バレバレの)嘘をつく度に、鼻が長くなってしまう。まあ原作では、ピノキオはもっと色々悪いことをしていたらしいのだけれど、それでも19世紀当時のヨーロッパ的道徳観でいえば、「嘘」は子供がよく犯す道徳的罪の最たるものだったのだろう。日本でも、「嘘つきは泥棒のはじまり」とか言うけどね。ただ、「懺悔」の伝統があったりするキリスト教圏ほど、嘘への拒否感は強くないと思う。たぶん。「うっそー!」「うそだろ」とは簡単に言えるけど、英語話者に向かって"Liar!" "That's a lie!"と言ったら本気で怒るもんね。

さて、そんな罪である嘘を私がススメる理由↓

1)人間関係で波風が立たない

まずはこれだよね。心ないお世辞でも、なんでもいいじゃん。嬉しくもないお世辞を自分が言われたときだって、「ありがとうございます」(大嘘)で返そう。しかも、嘘だってバレても構わない。口で言うことにさえ瑕疵がなきゃ、相手は表情や目つきでこっちを訴えられない。

2)心を把握されない

人の心を把握して操作しようとする人間ほど、耐えがたいものはない。自分の本当に痛いところ、突かれたくないところは、隠しておこう。ありふれたアメとムチで動かされない人になろう(給料と脅迫、とか)。他人に操作されない、腹の底の読めない人になって、生き延びよう。

3)クリエイティブになれる

というか、頭の回転が速くなる。どんなストーリーでも厚顔無恥に作って、とっさの危機を乗り切ろう。しっぽをつかまれない限り、怪しまれたっていい。「犬に宿題を食べられました」みたいなことを言う子供を怒ってはいけない。自分の頭で考えることをしはじめているのだから。

4)ユーモアの感覚がわかる

ユーモアのわからない人って辛い。皮肉が通じない、言葉を額面通りにしか取れない。そんな人ばかりじゃ、世の中息苦しいよ。というか、皮肉も広義の嘘だよね。「わー、すてき」(棒読み)とか言って、文字通りに取られたら脱力する。私見だが、アメリカ人ってユーモアのある嘘すら許容しない印象がある。というか「ユーモア」の概念が弱い。まじめ過剰。イギリス人とは、ほんと対照的だ。

さあ、これでなお嘘を非難する理由がどこかにあるだろうか?いや、ありません(反語)。

嘘つきになろう。

 

素直さなんてクソくらえ

素直じゃない、と母親によく言われる。

そうだな、とまず思う。私は素直ではない。

それで素直になりたいか、と聞かれれば、なりたくない、と答えるだろう。素直になるのは金をもらってもご免だ。素直な人は、バカに見える。申し訳ないとは思うが、母親もときどき愚かに見える。

素直さゆえの純粋さを武器に、他人をやりこめられると思っている。しかしそんなことは、絶対にできない。

私はそういう人が苦手だ。「なんで心をひとつにしてやらないの」とか「感動を共有しよう」とか言う人が苦手だ。

素直な人は、「他人」という言葉の意味を知らない。

 

「素直じゃない」とはどういうことか。

ともかく一つは、「先生」「先輩」と名のつくものが苦手だということだ。中学、高校では、これのせいでずいぶん損をした。周りの人の「素直さ」が信じられなかった。ただただ気持ち悪かった。例えば?自分をさんざんパシった先輩の卒業に、涙を流すようなこと。場を盛り上げるためだけに、セクハラ一歩手前の冗談をとばす先生に笑顔を見せるようなこと。

私はさぞ「心を閉ざした暗い奴」に見えたことだろう。そして、それは事実だったのだが。一生の幸福と引き換えでも、「心を開いた明るい奴」になどなる気はなかった。理屈などない。ただの意地である。そしてカモフラージュを一枚はげば、私の性格は、当時から全く変わっていない。

巷で言われる「就活の気持ち悪さ」も、その根源は素直さの過剰にあるんでない?心を100%さらけだせ、と迫られるような…

 

だから、全国のひねくれ者のみなさん。ぜひ、そのひねくれを貫き通そうではありませんか。素直さなんて、クソくらえ。なんであれ多くの人がで盛り上がっていることには、ひっそりとNO!を唱えてやりましょう。生きづらくならない程度に小さな声で。自分にだけ聞こえる声で。

 

 

素直な心になるために (PHP文庫)

素直な心になるために (PHP文庫)

 

 ↑こういう本のタイトルを見た瞬間に心の中で反発してしまうあなたは、有望なひねくれ者です。

音程とリズムのある言語

最近中国語の勉強を始めたんだけど、「声調」の概念をつかんでから急に面白くなりだした。
ご存知の通り、中国語には4種類の声調があります。日本語には、声調は存在しない。言葉の区別のために必要なのは最低限のイントネーションだけ(「鹿」と「歯科」とか)。しかも日本語のイントネーションっていうのは相対的なイントネーションであって、2音の関係の中にしかないものだから、基本的に個々の1音はどんなに平べったくてもいいんだね。
日本語は音程にきわめて乏しい言語といえる。その一方で、5-7-5-7-7の形式にみられるように、固有のリズムをしっかり持ってる。「オバサン」「オバーサン」の区別とか、どこを伸ばすかもすごく重要。
英語はどうか?
英語ではアクセントの存在が、リズムと音程の両方を支配してる気がするよ。日本語に比べれば、音程の振れ幅は大きい。
こう見てくると、各言語の音楽的要素ってずいぶん違いがある。こんな役にも立たないことを考えるのは面白い。言語学とか、小難しいものをかじらなくても。
そう思いませんか?
今日はここまで。

「僕たちはいつもと同じように遊ぶだろう」

パリの同時多発テロから10日が経った。

妻を射殺されたアントワーヌ・レリスさんがFacebookに公開した手紙が注目を集めている。朝日新聞の一面にも、掲載されていた。たしかNHKでもやっていた。

その中で私が最も胸を突かれたのは、「僕たちはいつもと同じように遊ぶだろう」という一節だ。

いつもと同じように遊ぶ。安全のため、とかフランスの団結のため、とかいって日常の楽しみを放棄しない。

いつもと同じように遊ぶ…

一方、このような「国家レベルでの悲劇」が起こった時には、無関係に生きて遊ぶ人に対して「不謹慎だ」という批判が飛ぶ。テロリストに隙を見せるな、とかそういう論理ではなく、遊ぶことは死んだ人(や苦しんでいる人)に失礼だという空気が作られるのだ。

現に東日本大震災のあとに、日本はそうなった。「自粛」というよくわからない現象が続いた。

アントワーヌさんが同様の非難を受けているかは知らない。でも、私は彼の言うことが正しいと思う。

普通の人が公園を歩き、外でおいしいものを食べて、お酒を飲み、音楽や映画や本を楽しむ。それこそが、それだけが、暴力に対する有効な抵抗であると思う。そういうことが禁じられるなら、生きている意味はないとさえ思う。

私はもし日本で大規模なテロが起こっても戒厳令みたいなものの下で生きていくのは勘弁してほしい。と思った次第です。

ウィリアム・サローヤンの「パパ・ユーア・クレイジー」を思い出しました。父と息子が二人で、とてもシンプルに「生きていく」ことを描いた小説です。二人は、毎日遊びます。気になる人は、読んで下さい。

今日はここまで。

 

 

東京中の電気を消して

忘れられない言葉、というのがあります。

それも特になんの重要性もあるわけではないのに、突然脳裏に浮かんでくる言葉というのがあります。

「東京中の電気を消して 夜空を見上げてえな…」もそのひとつ。エレファントカシマシの曲「友達がいるのさ」の出だしです。

Youtubeをうろうろしていて出会った曲ですが、初めて聴いた時、衝撃を受けました。いいものは、いいね。時代が変わろうと、世界がどうなろうと、テロで人が死のうと、いい曲は、いい曲だね。そう思いました。

さて、しかし「東京中の電気が消える」とは、現実には決してありえないことですね。昔、何かの教科書で、夜のアジア地域を上空から写した写真を見たことがあります。日本でも特に東京周辺は、驚くほど明るい。一方で、暗闇の地域は暗闇(中国の田舎らしきところとか)。たとえ夜じゃなくても、太陽が照りつける真昼でも、東京の各所で照明は必ず使われているし。たとえば勉強する子供のライトスタンドとか、病院の手術台とか。

「東京中の電気が消える」それはまさにカタストロフの到来によって、首都のインフラがすべて停止してしまったときのことでしょう。

そして、そんな空想がいつか現実になるのではないか、という恐怖と待望感を私は心のどこかに持っています。おそらく、多くの人が持っている。終末思想とか、大仰なことを言わなくても。

今日はここまで。

 

もやもやするBGM

近所の日用品量販店に行くと、80%くらいの確率で「昔、聞いたことある」クラシック?音楽が流れてる。

その曲名がどうしても思い出せないので、毎回、「隔靴掻痒」のもどかしさを味わうことになる(この四字熟語、はじめて使ったよ)。

「思い出せない」系ではなくて、「嫌い」なためにもやもやするBGMというのも一定数存在していて、例えば私にとっては桑田佳祐。いや、個人的には恨みはないし、有名なのはすばらしいことだと思うが、あのハッキリしない発声がどうにも許せない。どうして、何て言ってるか分かるように歌わないのか…!とむずむずしてしまうのだ。好きな人は好きで、全然構わないと思うのだが。

方向性は大分違うが、同じく「嫌い」なのはさだまさし。声に不快感を禁じ得ない。個人的な恨みはまったくないが。

私だけなのだろうか?それとも、多くの人が「実は、生理的に耐えられない歌声/音楽」を持っているのだろうか?

音楽の許容範囲が狭いと、それだけ不条理に生きづらくなるのだろうから、音楽にこだわりがない方が良いんだろうけどね。とくに、あちこちでBGMが流れているこの世の中では。

今日はここまで。

「村上さんのところ」は粋だ

アンチも多いだろうけど、私は十代のころから村上春樹の作品が好きでよく読んできた。彼の場合は、エッセイもまたじわじわと面白いのですね。笑わせる。そういうツボを心得ている人であると思う。だから小説以外も売れるのでしょう。

というわけで、「村上さんのところ」を読む。(一般読者からのメール相談に本人が送った返事の一部を編纂した本)。

この本で面白いのは、ひとつひとつの相談の間にある温度差だ。「そんなん、どうでもいいよ!」というものから、「うーん、自分で考えたら?」というもの、「お、重い…!」というものまで実にさまざま。

メールを送る側はもちろん、他の人がどんな相談をしているのか知らないわけだから、相談の深刻さ度合いがバラけるのは当然。それを全部つかまえてさばかなくちゃいけないのが村上さん本人、というわけですね。

例えばいろんな位置に予告なしにバラバラに飛んでくるボールを的確に打ち返す、ようなもので、これを読んでいると「すごいなあ、頭の体力が半端じゃないんだな」と私は感心する。しかも疲れて息切れしてる様子なんてみせない。いつも「あなたが初めての相談者です」という感じ。粋だね。

そのなかでも好きな応答をひとつ紹介。

「夢のなかで村上さんの家に行ったら、手づかみで夕食を食べていた」という相談者に、村上さんの答え。「あたりまえじゃないですか。うどんなんかは耳から食べています。また夢で会いましょう」。

粋だね!!

今日はここまで。

 

村上さんのところ

村上さんのところ